京都鉄瓶の歴史
鉄瓶はもともと手取釜と呼ばれ千利休の時代から茶の湯の道具ものとしても また庶民の生活の中でも使われておりました。その手取釜が江戸中期に 四条富小路の「龍文堂」によって京鉄瓶として一大ブームとなり、明治期には多くの職人が技術を競い合い様々な鉄瓶が美術品として輸出され、現在でも海外の博物館には豪華な象嵌細工の京鉄瓶が所蔵されています。しかし、戦時中 金属供出で物資が不足し京都の多くの鉄瓶業者が廃業に追い込まれました。
そのため、京都で鉄瓶を作っていたことを知る人は数少なくなっています。
一旦衰退した鉄瓶ですが、10年程前より中国で贅を尽くした京鉄瓶の古物がブームとなり中国茶道の1アイテムとして再認識され嗜好品として利用されるようになってきております。
雲色堂は 明治期に十代 和田美之助が京下京高辻に住した雨宮金寿堂に学び鉄瓶を制作したの時の 屋号で
現在十三代が雲色堂の銘で鉄瓶を制作しております。
明治期に途絶えた京象嵌の鉄瓶の復興 再現に尽力するとともに銀打物とのコラボレーショ人により明治期にはなかった実用性も備えた新たな美術工芸を操作記しております。
雲色堂 鉄瓶の挑戦(鉄壺)
銀覆シリーズ
●京鉄瓶(鉄壺) 銀覆シリーズは鉄鋳物 銅鋳物 銀打物 鉄鍛造 京象嵌 のコラボレーションによる総合芸術品になります。
「垂型銀覆鉄瓶」は鉄瓶を茶壺に見たてて茶壷にかかった釉薬を銀板で表現しております。鉄瓶本体を作った後、銀打物師によって内側から銀を巻き上げ叩いて本体と一体にしていきます。
そして本体を漆と鉄漿で色付けし銀を磨き上げています。
象嵌シリーズ
京象嵌の鉄瓶自体は明治期に作られていたので我々にとっては目新しくはなく、鋳物本体に京象嵌を彫る技術は明治期に芸術品として海外に多く輸出されておりましたが、戦後需要もなくなり現在の象嵌職人の間ではアクセサリーなどの鍛金板に象嵌を彫ることはできるが鉄瓶などの鋳物には象嵌細工をした経験がない状態でした。
一度途絶えた技術でしたが、何度も失敗を重ね試行錯誤により手間暇はかかりますが鋳物にも象嵌が彫れるようになりが平成の京象嵌作品を復興することができました
すべて一点製作で一つ作るのに4か月~6か月月かかっております。
現在コロナウイルスの影響もありまた職人も高齢になり、今後 このような京都の金工の技術を結集した美術品が作れるかどうかわかりませんが令和の時代にも京都では日本の最高の技術で最高の鉄瓶を作っていることを密かに知っていただけたらと思います。